信濃の塔(長野県)


1 所 在 地    沖縄県糸満市摩文仁
2 建立年月日    昭和39年4月1日
3 敷地面積    1,332平方メートル
4 合祀者数    55,405柱(沖縄戦戦没者1,294柱、中部南太平洋諸地域戦没者21,811柱、その他諸地域戦没者32,300柱)
5 管理団体    長野県
    
6《建立の経過》 碑文から

 昭和12年7月勃発した支那事変は遂に大東亜戦争に発展し、戦域は遠く東南アジアを蔽い、沖縄は死命を制する要衝として一大決戦場となったが、昭和20年8月戦いは史上最大の犠牲を払って終末を告げた。
 その間、本県出身の将兵、文民の逝いて帰らざるものまた数を知らない。顧みれば、諸霊は遠く祖国を離れ、北漠に北斗を仰ぎ、南溟は十字の星陰のもと、東は太平洋の海原の崖、西は印度洋の波打つ限りの諸地域において、陸海空の苛烈なる死闘に、はたまた言語に絶する気象風土等の悪条件下、非運にも異郷に没して、再び家郷に帰らず、祖国のため、貴い犠牲となられたのである。爾来この犠牲を礎として、世界恒久平和樹立の願い澎湃として高まり、ここに終戦後18年を迎えるに当り、200万県民は諸霊の崇高なる死に対して報謝以って慰霊の誠を捧げるとともに天地永遠の平和を祈念するべく、長野県、同議会を始め各種団体の協賛により、厳かに信濃の塔を最終激戦地として記念すべき沖縄島摩文仁の聖地に建てる。
 諸霊よ、遥かなる信濃の故山清流より選ばれた銘石に想いを寄せられ、ここ摩文仁の景勝において、波の楽音に守られながら共にふるさとを語り合われんことを希う。心をしずめ、はるかなる彼方を望み、なつかしくもまた哀しき諸霊の冥福を祈る。
   昭和39年3月 
             長野県出身戦没者慰霊平和塔建設期成会長
                  長野県議会議長 西沢寛志謹誌

信濃の塔2





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